Saturday 23 August 2014

内側にのこる景色としての様式

すきなことは、といわれると、昼寝散歩読書、なきわめて無趣味な人間だけれど
(読書はりっぱな趣味だといわれるかもしれないが、わたしは食品の成分表や商品の取説、FB上にながれてくる読めない言語まで、なんでも読むので、文字をつかってただぶらぶら時間をうめているので、文学がすきだ、とはとてもいえない)
わりと想像的な趣味としては自炊とプレイリスト作りがある

ご飯を作るのはいつでもとてもたのしい
その土地その土地でどんな食べ物が売ってるかをみて、その場でどんな物を作るかきめていくのもすきだし、
かつて食べたおいしかったものを思い出してそれを再現するのもすきだし、
それがうまくいけば、自分なりにアレンジをくわえて自分のレシピとして固定するのもすきだ
安定したレシピは、自分が作るときもおもしろいし、さらにそこからふるまった友達にも伝播していく
レシピが安定する、つまりメニューとしての強度をもつということだが、そういうメニューが増えていくのはおもしろい

一方で、プレイリスト作りは一時期はとても熱心にやっていた
でも今は、何かのイベントや、友達へのプレゼントや、もしくは作品の客入れ用などにしかやらなくなっている
大きな原因として、CDをつかってやかなくなった、というのがある
CDでデータを焼くようになるまえはカセットをつかっていた
CDにしろカセットにしろ、ある一定の時間が決まっている、というのが大事で、
どんな曲からはじめて一つ一つの曲の並びを吟味し、決まった時間パンパンになるように曲をえらんで、
そのプレイリストを使って遊びにいく場所や、これから一ヶ月毎日聞いても飽きないもの、と季節にあわせて考え、タイトルをつける、
といった工夫をこらすのはとても楽しい作業だった
だけど、データで音楽をやりとりするようになって、じぶんで制限時間をきめなくてはいけなくなったら、とたんにそこまで楽しくなくなった
一度、丸一日分かけられるプレイリストをつくろう、とおもったことがあるけど、
そこにつけるタイトルがおもいうかばなくて、けっきょく集中力がつづかなかった
言葉は自分の集中をひっぱってくれる力があるが
わたしは自分自身ではなんでもない、ただの一日を特別化する言葉をつくりだせなかった
今でも、他人のためにプレイリストを選ぶのは相変わらず好きだが、
これの問題?はデータの受け渡しがDBなどでデータ共有でやるので、
曲順に番号をふったりしてはいるが、そもそも、うけとったひとが聞くやり方がかわってきてるし、その人のituneにプレイリストをつくってその曲順で音源をぶっこんでくれるかどうか、なんてわからない、かけられる環境をわたしたところではセッティングできない
それにそうしてほしいわけでもない、その音楽はうけとったひとのものだ
最近、もうひとつ気に入ってるプレイリストの作り方は、
soundcloudでプレイリストをつくることだ
サンクラは頭から順番にリストを作っていって途中でかえたりできないので
(いや、ほんとは出来るかもしれないけれど、その方法をしらないようにしている)
(だけど、しらないようにしてるからといってしりたくない訳じゃないので、だれかがおしえてくれるならそれはかまわない)
プレイリストに追加する順番をなるべく一発で決定するようにしていながら
その曲を選ぶとひっぱられてレコメンドが流れてくるのでそれをあさってると
ああ、この曲はこのまえのまえにいれなきゃいけなかった、と、
さっき決定した曲たちを一旦消して見つけた曲をいれてまた追加追加する
あんまりそれがつづくといやになって、またいちから追加するためのプレイリストを作り直す
そういう作業がたまらなく好きなのだ
しかしこれまた問題?は、おなじく聞く環境で、作ったプレイリストをかけきったところでとまらず、それにひきづられたレコメンドが続けて流れるところで、
これは、それがあるからさんくらでのプレイリストが好きな部分でもあり、まあ、こういう様式だから、こういうプレイリストができるわけだし、と自分を納得させるしかない
単に様式がかわったことでわたしがそれに対する熱意をそこまでもてなくなっただけであり、そうあるべきだ、なんておもわない、ただあきらめてうけいれ、その状況を楽しむだけだ


あらゆる事柄の様式がモノから概念にかわってきているいま、わたしというどこまでも普通な人間が演出、という役割をになう作家になることはある種の必然性があるし、それに従う準備はできてきた
その話をしようとおもう
というか自分のためにこのキャッシュを文章にしてかるくしようと思う

なぜわたしがやらなければいけないんだ、というやけっぱちな無気力さにみまわれたことも一瞬あったが、あきらめてうけいれて、楽しむことにする
しかしこの無気力さは定期的に今後もおそってくるだろうことは確信している
それにまけないために、何かおわったらちゃんと休む、それが重要で、
バンコクにもどったら、むしろそっちではちゃんと働く日をつくることにした
夏休みの最初の一週間と最後の一週間をずっと繰り返していたのだが、
平日をとりもどし休日をとりもどす、それはとても大事なことだろう
わたしはわたし自身を健康にいかす契約をむすぶ、そのためにすこしだけわたし自身に悲劇をかすことにする
同じ意味で演出以外の自分の好きな事もひきつづきずっとやっていく
昼前におきてご飯をつくり、ソファでプレイリストかけながら昼寝をして、ネット見ながらうだうだ同居人としゃべり、このように思考のキャッシュをすてるために文章を書き、たまにリラックスのために適当なセックスをしてはそこにあらわれてくる虚構にうんざりし、気分転換に散歩をして写真をとり、猫とあそび、言語を勉強し、こどもに新しい遊びをおしえてもらい、パーティーにでかけてフロアの真ん中でねむる。
これらすべてのことと演出をする、というのはわたしのなかでなんらかわないことだ、という実感だけはぜったいに捨てちゃいけない
それをすてた瞬間にわたしは特別な人間として特別なセリフをしゃべりはじめるだろう

演出家の一番重要な仕事は、見えない様式をうみだすことだ、と思う
コンテンツをつくりだすのは、テキストを生み出す作家がやることで、
そしてそれはテキストになれば一度うまれたらずっと残っていく
けれど演出は残らないものを様式として成立させることだ
ひとが最初に参加する演劇は”家族”だ
見えない様式として厳然とある演劇にわたしたちはある種暴力的に参加させられる
その様式はあまりに当たり前すぎて、これを演出したのはだれかわからないが、
うまいことやったな、とわたしはおもう
よく出来ている乗り物で、ここに乗らないかぎりは誰もスタートできない
適当な時間を経てそこから降りる時期がくるのでいったら電車の各駅停車か
(ちなみにわたしの考えでは恋人同士は車だ)
演劇作品に参加しはじめるのは、セリフをしゃべりはじめたときだ
見えている世界を理解するための本当の言葉ではなく、”わたし”をキャラクターにみたてて言葉を発する時に、ひとは世界劇場に参加する
(みたてはその前の段階だ、”わたし”という概念をみたてるまえにモノをみたてる練習をへて、はじめてそのみたては可能になる)
それはとても普通で普遍的なことだ
役者には役と身体がうまくかさなっていてはじめて、ちゃんとセリフがしゃべれるように、ひとはそうやって生きていくからだ
ハイカロリーな特別なセリフをしゃべるためにプロの役者がいる
彼らはそのハイカロリーなセリフをきちんとどうやって自分の身体におとしこめばいいのかに苦心する
それができないと、セリフがいえないと、つらいのは自分だからだ
大勢の人の目の前にさらされて、自分の身体から生きている言葉をだせないのは、役者という人種にとって拷問だからだ

わたしは自分が篠田千明役をやってる役者としてはそこまでプライドがたかくなれない
いいたくないものはいわない、それでいいとおもっている
もしくは適当にちゃらっと特別な事をいうことぐらいはできるだろう、それはちっともはずかしくないしつらくない
それよりは普通の人間役のほうがずっと大切で、そのことがいままではすこし不安だったのだけれど、これからはプライドをもっていこうとおもう
とにかくわたしは自分がずっと普通でいるために全力で努力する
土地にも時間にも拘束されず、家族や恋人という乗り物にのることはやぶさかではないがその形は自分できめたいので大概ありものにはのる気がなく、金持ちでもなく貧乏でもない、賢くもなくバカでもない、かわいくもなければぶさいくでもない、しいていえば、日本のパスポートという最強の武器を今はもっているが、それだって、そのうち最強でなくなるかもしれない、そんな人間が他人の内側に景色として残ろうとする見えない様式を一生懸命考える、普通の人間が普遍をうみだす、そういう役はやってもいいな、できるかな、やってみたいかもしれない、と、思っている


2014,0824, Tokyo

Saturday 16 August 2014

誰もいない他人の家

誰もいない他人の家にひとりでねむる
わたしが所有していないものにかこまれ安心してねむる
それは恋人のようなものなのだろうと想像する

誰もいない他人の家にわたしの好きな人がきて
となりあっていっしょに安心してねむる
それは永遠のようなものだろうと想像する

誰もいない他人の家にわたしとわたしの好きな人がねむっていると
またちがうわたしの好きな人がやってきてわたしたちをおこす
そしてコンビニにいこうというので、ビールでも買うかとおもう
それは約束になる

誰もいない他人の家の庭でわたしたちがぐだぐだ話しながらビールを飲んでいると
その家の住人がインドからかえってきてつかれたからしばらくねるという
やさしい気持ちになるのでしずかにする

誰もいない他人の家でついにおなかのすいてきたわたしたちは
何かを作ろうかと思案するけれど、この家の住人はねているので
この家のどの食べ物を使っていいのかわからない
どうしたものかと思ってるうちに、ちがう家の住人が帰ってきて
おなかすいた?ときいてきた
そうしてここは港になった

港でバーベキューをする事になったので
わたしはひとりで駅前に買い物にいく
あじの干物、ししとう、トウモロコシ、豚肉、と選んだところで
ここのスーパーよりもう一つ向こうの大きい駅前の激安スーパーのほうが
お肉をいっぱい買うならやすいんだよな、と思い出す
行くか行かないかまよって、行かずにかわりに安かったツブガイを買った
港にもどると塩焼きそばが作られていて、セブンのフランクフルトがならべてあり、
ひともいつのまにかずいぶんと増えている
これはきっと家のようなものなのだろうと想像しながら
七輪を準備している人の横で食材を並べる

次の日おきると、他人の家でわたしは目を覚ました
誰もいない他人の家にわたしをのこし鍵をかけずに外に出て
駅にむかいながら
これはきっと死のようなものだろう、と想像した


(かさねがき、のためしがき20140716)