えばってゆうことでもないけど、私は目が悪い
視力は裸眼で右が0.03、左が0.01以下で両目とも乱視が入っている
乱視は右目の方が強く、でも利き目は左目だ
つっても利き目なんて、アナログのカメラでとる時ぐらいしか、もう使わないからあれだけど、深度がぶれにくいほうの目ってことなんだろうか、定義はよくわかんない
そんなわけで、目で判断することは質感があまりなく、記号的に配置される
コンタクトいれていても、それは変わらない、ものは見ているけど見ていない
注視するときだけが”見ている”
大きさ、何となくの色、ものが動いていれば動線は”見える”
小さい頃からそういう世界観だったので、あんまり気がつかなかったのだけど
そしてみながそうだってわけじゃないだろうけど、自分は言葉も近乱視的に使っている
言葉、言語、というのはどこにピントが合ってるってはなしなのか、
英語を使い始めてからようやっと、あ、そういうことなのねー、とわかってきたこともたくさんある
ハイカロリーな言葉のほとんどは、英語に直すときにもう一段階自分の中でちゃんと目盛りが出来ると、うまく消化できたりする
翻訳家はこの運動を楽しんでいる生き物なのかな、と、せばを思ったり
タイ語と日本語で共通するのは、口語でほとんど主語がでてこないってことで
英語で話す時もお互い雰囲気勝負なかんじで、わたしにとってはタイ語をしゃべるのもそんなノリがかわんない
英語文化圏のひとでタイ語をしゃべる友達は、一人称を自分の名前で言いがちな気がする
トムは川に行った、とか、クリスティーナはごはんを食べた、とか、
なかなかかわいい
遠くのものはよく見えない方が落ち着く
未来もそうだ
だから私を占おうとしないで
言葉が与えられてしまうとピントがあってしまう
ピントがあって見えたらむかってしまう
だから私を試さないで
そのまま今、目の前にいて起きていることがすべてだと、この世界観を受け入れて
バランス感覚の悪さは長所でもあるのだ
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